去る2011年、本山にて宗祖親鸞聖人の750回御遠忌法要を厳修させて頂きました。50年に1度という希有な御法要をお迎えすべく、御法要に向け、多くの有縁の方々のご協力を頂き、かねてより、活動と準備を重ねて参りました。
その活動の一環として、当山では、寺族・門信徒、皆共に親鸞聖人のみ教えに一層親しむべく「勉強会」を執り行って参りましたが、御法要と時を同じくし、宗学の気運をより一層高めるべく、若手僧侶・寺族を中心に研修活動を行うようになり、その集まりがこの度「瑞朋会」という名となりました。

先代の秀政上人の時代の頃に、同じく青年僧侶の会として「遇朋会」がありましたが、時と共に世代交代が進み、この度、宗祖の御遠忌法要を機縁として、若手僧侶を中心にこの瑞朋会の発足に至った事、誠に因縁生起の理を感じずにはおれません。

 特に「瑞朋会」の「瑞」の字は私の法名の一字でもありますが、この字は『仏説無量寿経』の序分、発起序の五徳瑞現と言われる、釈尊の出世本懐を説いた所に出てくる「霊瑞華」という花の名前に由来する字でもあります。
「霊瑞華」は梵語の「udumbara(ウドゥンバラ)[優曇鉢羅]」を漢訳した言葉であり、他に「優曇華」とも言い、3千年に1度だけ花を咲かすと言われる伝説上の花の名です。

無量寿経では、釈尊がこの世にお出ましになったその目的はただ一つ、阿弥陀如来の本願を私達に説く事である、という事をあらわし、さらに、この迷いの世を生きる私達が今、非常に遇い難い阿弥陀仏のみ教えに出遇えている事を、この霊瑞華が3千年に1度花を咲かせた瞬間に出遇ったぐらい希有な事である、という譬えをもって、遇法の有り難き事をあらわしています。

 同じく「朋」の字は「友達」や「仲間」という意味の字である様に、阿弥陀仏のみ教えを拠り処とし、親鸞聖人の説き明かされた念仏往生の道を共に歩む同朋・朋友という事であります。

 今、私達は過去からの因縁によりこの世に生を受け、その中で聖人のみ教えを戴き、阿弥陀仏のご本願に出遇わせて頂きました。さらに、その中で寺族の者として、お念仏をよろこび、そのよろこびを皆に弘めていく役を担わせて頂くという事は、無量億劫にも得難い希有なる縁であると言えましょう。

敢えて『瑞朋』という字に意義付けを行うのであれば、私達が、かようの得難き縁を得た事に感謝し、共に聖人の伝道のお姿に学びつつ、自らがみ教えの伝道に務めていく者としての責務を果たすべく、自覚と矜持を持ち、様々な事を分かち合いながら宗学と伝道に勤しんでいく朋友、という事でありましょうか。

 但し宗学においては、ともすれば学問として修め、知識を高める修学にのみ着目しがちであります。しかし、それだけでは、知識を豊富に得た者が優れ、得ない者はそれに劣ると思う、驕慢の心を芽生えさせる原因にもなりかねません。同じく、伝道という点においても、説く者から聞く者へと、一方的なものになりがちで同じく慢心が芽生えかねません。
有り難くも、御教えの伝道という立場とならせて頂いたとしても、私達は、親鸞聖人が「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と仰せになった事をよくよく心に留めておかねばなりません。

 特に、聖人は、七高僧の一人、善導大師の『往生礼讃』の中にある「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」というお言葉を「自らが阿弥陀仏の大悲を伝えて行く」とは読まずに「阿弥陀仏の大悲自らが伝わっていく」と言う様に捉えられ、あくまで阿弥陀仏の絶対他力のおはたらきの上での法の伝道というものをみていらっしゃいます。

 故に、私達は聖人の伝道のお姿に学び、自らが阿弥陀仏の法の中で生かされている同朋である事を忘れず、日々報恩と感謝の念をもって、お念仏をよろこぶ同行として御門徒の皆様と共に歩んでいく事が大切であります。その事をしっかりと心に刻みながら、次代を担う若手の僧侶・寺族が中心となり、更なる法義相続、念仏興隆に邁進していきたく存じる次第であります。

法主 二條 秀瑞