「May the 阿弥陀仏 be with you」~阿弥陀仏が共にあらんことを~

 私には映画 「スターウォーズ」の細胞がある。

2017年 年末に公開された、劇場第8作品目は既に4回、私の足を映画館に向かわせてくれた。

 

「May the Force be with you(メイ ザ フォース ビー ウイズ ユー)  ~フォースが共にあらんことを~」とは、スターウォーズの世界観を貫く根源的な教訓として、登場人物達が指針とする言葉である。

 

 私が生まれて初めて映画館にて見た映画はスターウォーズ劇場第1作である。

映画が公開されたのは私が生まれた1978年であり、世界的に大ヒットとなる。

見に行ったのは市内の文化センター。映画館ではない。

あまりにセンセーショナルな歴史的映画は、映画館ではない文化センターにまで持ち込まれて既存の設備を駆使されて上映された。

胸を膨らませ、祖母の手を繋いで文化センターまで歩いて行った道のり、文化センターの壁面に仰々しく飾られた映画パネルを今でも覚えている。

私はまだ6、7歳だったと記憶しており、映画公開から年数が経っているが、空前的人気と多大な影響を受けた有志の方の、今一度の大スクリーンでの鑑賞実現への情熱も作用したのかもしれない。

一見した途端、私の人生を変えた衝撃的な映画として現在もこれからもシリーズが続くスターウォーズの虜となる。

 

映画スターウォーズは宇宙を舞台に繰り広げられる善と悪の戦いのSF映画である。

様々な人間関係による個々の内省的な葛藤、苦しみ、生と死の問題も色濃く描かれ、勧善懲悪なだけの映画とは逸した面もある。継承される家族愛や人間の成長は含みながらも、人間の在り方の根源に即した生の苦しみと救済はあながち涅槃への物語にさえ感じる。

 

私がスターウォーズを拠り所とする理由として、幼少の頃の生い立ちが影響している。

 私は幼少の頃、ターゲットにされる事が多かった。

からかい、ちょっかい、そしてイジメ。

言い方は様々であり、それを行う側には軽い気持ちもあっての行為もあったであろうが、私としてはどれも全て虐げられた行為であり、辛辣とした経験であった。

幸いにも、深刻すぎる事態には至らなかったが、それでも当時は生きた心地がしなかった。厳密には深刻として認め切らないようにしていた。時代的にも今ほど直ぐに擁護されない。強くあれ主義の根性論の風潮である。自ら、言えないのである。

その為、ただただ迎合し耐えるだけであった。それしか乗り切る術は浮かばなかった。小さな自分の嗚咽の感覚は今も記憶している。

ドラマティックな和解やヒューマニズムによる劇的な円満成就など、ない。

事実は小説より奇であり、必ずしも結果は出ない。

それは時折ぶり返す痒みのように学年を超えて続き、卒業と共にプツンと幕切れ、フェードアウトしていくのである。なんとも不完全で、打破した思いはゼロだった。逃げ切りとも違う。

忌々しい、しこりとトラウマが堆積されたにすぎない。

成人した後の就労時には、「お前は他人から攻撃されやすい、攻撃しやすい人格だ」と言われた事があった。

私自身の甘えや自信の無さ、不安さの醸し出され方は、幼少の頃は特に顕著だったのであろう。

そして自己の不徳や未熟の致す所として捉えながら、もがき成長への努力はしながらも、とにかく不安や自己改革、境地への渇望を膨大に抱えていたように思う。

 

 なぜに不安がこうも多いのであろうか。

それは、自分というものがあるからである。

笑ったり、怒ったり、我慢したり、泣いたり、全て自分の仕業。死ぬまで自分を捨てられない。

自分を守り、自分を甘やかせ、自分を喜ばせることに一生を費やそうとする。

まさに自分の奴隷である。

生老病死の根本的な苦、それと向き合わさざるを得ない自分というものへの執着、他人との関係性の自己認識、常に自分との対峙を余儀なくさせ、為す術もない苦しみに困窮し不安を生み出して、泣いて泣いて苦しむのである。

 

スターウォーズの主人公達もとにかく、泣く。

泣きじゃくる。

これほどに主人公達が泣く映画も珍しい。

泣いて叫んで、もがく。勇ましい戦いの描写より、自己の葛藤と目覚め・気付いていく姿の方が色濃い。

泣き叫び、苦しみを露呈する。自分を呪い、自己の弱さに嘆く。無常な運命に打ちひしがれる。しかし、自己と対峙し、厳しく内省し、そして偉大な力の働きかけへの気付きにより開眼し、運命と共に世代を超えて善と悪が救済さていく。

 

そんな不安の応酬と自己救済の映画に、私自身の不安に敏感な心根が強く反応していったのではないかと感じるのである。

 

映画を見て元気になりたい、ではない。

 

こんな不安だらけの私自身にも光を見出す事が出来るのではないか、偉大なものへの気付きに未だ出会えていないのではないか、という想いに至らしめたからである。

 

幼少の頃から、そのような願いで見ていたからこそ、特別な想いを寄せる映画に成ったのだと、年数を重ねた今、思慕する理由の輪郭はより深く浮き彫りになったのである。

浄土真宗と、一映画を照らし合わすなど、不届き千万とお叱り頂くかもしれない。

決して、同じであると言うのではない。

感じずにはいられない。想いを馳せずにはいられないのである。

阿弥陀仏から私達に働きかけ願われている本願力、阿弥陀仏から賜る信心により、念仏を申し、仏にならしめられる浄土真宗のダイナミズム、一時も離れず私と共にある阿弥陀仏の慈悲の光を心に描かずにはいられないのである。

  なぜか、それは次の通りである。

 先に述べた、主となる倫理観として劇中で多用される根本的な教訓のセリフ、

「May the Force(フォース) be with you」 ~フォースが共にあらんことを~

フォースとは私達を取り巻く大いなるエネルギー、世界と私を結び付けている周囲に浸透している働きかけの力である。無闇な修行や過酷な鍛錬ではなく、自分が周囲の様々なエネルギーの一部として存在している事に気付き、善悪、喜び悲しみ、生死の無常の真理の中にいる事に気付けというのが主旨であり、そこで無常を知り、安穏と強さを主人公達は得ていくと、私は捉えている。

 

では、その「Force(フォース)」を「阿弥陀仏」に置き換えて味あわせて頂くと、どうであろうか。

阿弥陀仏の本願力、大悲心と捉えてみる。

 

真宗に導かれ、信心を頂き、念仏申す私達の性質は、阿弥陀仏と共にあり常に一緒である。

今、この瞬間に阿弥陀仏と共にある。決して離れることはない。

阿弥陀仏が私達を取り巻き、浸透し、私達と本願を一つに結び付けている。

親鸞聖人が見た、凡夫の行為の一切の不実さ、自ら見に付ける力ではなく、気付く前から自分に向けて注がれていた本願力・慈悲心は、スターウォーズ内で描かれている、小さな存在の自分で会得していくパワーはなく、もとより自己を取り巻き浸透していた、決して離れないフォースというエネルギーに気付き、身を任せて腑に落ちて精進して行く、劇中の人物の生き方、在り方に相互性を見出さずにはいられない。

 

阿弥陀仏の本願は人間に念仏として行う大行によりのみ成就し、人間が救済される理想・仏となる理想は阿弥陀仏の本願を信じる他に成就する道はない。

阿弥陀仏に帰命してのみ、凡夫の我らで在り、阿弥陀仏は我らを摂取してのみ阿弥陀仏であることができると味あわせて頂く真宗に導かれる私。

 

かたや、スターウォーズにおいては、フォースの一部として、フォースに浸透されている自分に気づいた時にこそ、大いなる喜びと本当の内なる強さ、指針を得られて輝き、現生において悟りの境地に至り生き生きとした「生」を歩むスターウォーズの人物達。

 ここにおいて、親鸞聖人の教義がふつふつと込み上げてくる。

歎異抄 第十五章「尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ」 

の通り、 自力では不可能な高遠なる理想は阿弥陀仏の本願によってのみ可能であるということであり、煩悩具足のこの私にも尽きることがない願がかけられている。

正像末和讃 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」の通り、不確か、不安定な自己に気付き内省し、賜る信心を喜び、阿弥陀仏のご本願の声に気づき帰命する尊さを知り得る。

往生の因である信心は阿弥陀仏より廻向され賜わるものであり、その瞬間に念仏者は阿弥陀仏の大悲に摂取され、今のこの場において必ず仏に至る「正定聚」の位を得られる。

煩悩のままに流転してゆく人生が「仏となる」ものへと転成する。

まさに自分を取り囲み、自分に向けられている大いなる働きかけに気づくこと知らしめる、金剛の喜びである。

 阿弥陀仏の摂取の働きかけとスターウォーズ、この二つの中にある深遠なる真理、全ての衆生に注がれている働きかけに気づく、その身そのままが願われ輝いている、信心の念によるお念仏にて救われて仏に至らしめていくという事実、

やはり、想わざるを得ない。

 

「May the Force(フォース) be with you」~フォースが共にあらんことを~

スターウォーズでのその呼び声は、自分自分と執着している私にも、いつもそばにあるエネルギーがあり、そこに、包まれている自身を見出すこと。

 

その光は、浄土真宗の私には、いつもそばにある願いに気付けと呼んでいる阿弥陀仏の声、摂取と救済の光であること。お念仏を運んでくださる大行であること。

だからこそ、私は呼び換えて味あわせて頂く。

 

「May the 阿弥陀仏 be with you」~阿弥陀仏が共にあらんことを~

凡夫である以上、生きていく上で安心し切っている状態は僅かであるように思う。

日々、不安を忘れている状態が多いようにも感じる。

生老病死を主とした苦の宿命があるからこそ、不安で一杯の私であるからこそ、阿弥陀仏は救いの誓願を立てられたのである。

不確定な私一人の一生の力では到底及ばない、得られない尊い作用が既に私に働いているのである。

 幼少の頃からの体験やそれに基づく人格形成の道は、生の証し。

不安や苦しみこそ生きている証しとして、静かに腑に落としても良いのではないだろうか。

自己を取り巻く一つ一つに、目を向ける・心を開く・声を聞く。そこに気付いていく有り難さに知恩報謝して歩んで行きたいと思うのである。 

そして、これからも阿弥陀仏の光を受けながら、賜るお念仏を喜びたい所存である。

 最初に述べた、私の中にあるスターウォーズの細胞は、細胞分裂のごとく様々な思慮にも波及してこれからも大切な構成要因となる。今年も来年も新作が公開され、一大叙事詩は継承されていく。

私が法話の際にスターウォーズの主人公達の武器、ライトセーバー(光りを帯びる剣)を万が一紹介していた際はホワイトボードや黒板への指し棒として使う可能性もある為、お含み頂けると幸いである。

 

最後までお読み頂きまして、心からの感謝を申し上げます。   合掌

 

2018年3月   本正寺  副住職   稲田 晃俊