テーマ 「念仏~今、私が出遇うべきもの」

「まうあふと申すは本願力を信ずるなり」

 まうあふと申すは本願力を信ずるなり

「あう」という語には、「会う、逢う、合う、遭う」などの漢字があり、場合によって使い分けます。

「会う」は、知人に会う、出会い頭など、人と会う場合、また同窓会、説明会など、多くの人が集まる場合。

「逢う」は逢引きなど、親しい人とあう場合。

「合う」は、気が合う、川が合流するなど、人以外のものがあう場合。

「遭う」は、事故に遭う、災難に遭うなど、好ましくないことにあう場合。

テーマには「念仏~今、私が出遇うべきもの」と「遇う」という字が使われています。「遇う」という字には、思いがけず、偶然出くわすという意味があります。

親鸞聖人は、

()」はまうあふ(もうあう)といふ、まうあふ(もうあう)(もう)すは(ほん)(がん)(りき)(しん)ずるなり。『一念多念文意』

と示されています。

「もうあう」は「あう」の謙譲語「あいたてまつる」の意味です。同じ意味で「値う」という字も使われておられます。この「値う」と「遇う」で「()(ぐう)」縁によってあう。仏縁にあう。という意味があります。

噫弘誓強縁、多生値、真実浄信、億劫叵獲。遇獲行信、遠慶宿縁。『教行信証 総序』

ああ、()(ぜい)(ごう)(えん)()(しょう)にも(もうあ)ひがたく、真実(しんじつ)(じょう)(しん)(おく)(こう)にも()がたし。たまたま(ぎょう)(しん)()ば、(とお)宿縁(しゅくえん)(よろこ)べ。

(現代語訳)
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。

阿弥陀仏と私との出遇いは、私の側からは偶然なのかもしれません。しかし遠い過去世から、南無阿弥陀仏の名号となって、私たちを呼び続けてこられた阿弥陀仏の側からすれば、必然の出遇いなのです。出遇う前から救いの中におった。迷いの世界を離れるには、私自身の力(自力)は役に立たず、阿弥陀仏の本願(他力)に全てをおまかせするしかない。と信知すること。それは阿弥陀仏に帰(南無)することでありますので、南無阿弥陀仏とお念仏申すことなのです。

合掌

霊泉寺 畠山真証