テーマ 「念仏〜今、私が出遇うべきもの」

住職継承のご報告

 昨年の10月、真覚寺にて親鸞聖人750回御遠忌法要を厳修させていただきました。この日、住職継承式も合わせて行わせていただき、真覚寺第24世住職を継承致しました。
 50年に一度の大きな法要の日に住職を継承させていただいたことは、大変なご縁であると感じております。

私は、福井市内の真宗大谷派の寺で生まれ育ちましたが、お寺の雰囲気が嫌で子供の頃から技術者になりたかったため、大学卒業と同時に家を出てしまい、現在は横浜で会社勤めをしています。
しかしながら、ご縁ありまして妻の実家である真覚寺を継ぐこととなりました。 さすがは阿弥陀さまです。 摂取の光から逃れることは出来ませんでした。

そんな私は、子供の頃から阿弥陀さまや、お経は身近なものではありました。 亡くなった祖母がよく本堂に座って「至心信楽、欲生我国・・」と称えていたことを思いだします。しかし当時はお寺に対してほとんど興味が無かったために、最近まで浄土真宗はおろか、仏教一般の知識も有りませんでした。そこでこれではいかんということで、3年前に中央仏教学院の通信教育で勉強を始め、昨年卒業しました。更に教師試験を受けて、ようやく駆け出しではありますが住職となることが出来ました。

技術屋で理屈っぽい私にとって、浄土真宗は謎だらけでした。とくになぜ「南無阿弥陀仏」を称えることで救われるのかが分かりませんでした。
いろいろ勉強していく中で感じたのは、聴聞したり勉強したりする中で、自分の中に答えが徐々に出来て来るのであり、それがある意味信心ということなのではないかということです。これはこの世の理屈の範囲では説明できないことであると思います。今の私の領解で敢えて言うならば、それが阿弥陀様の願いだからと言うことではないかと思います。

 親鸞聖人は阿弥陀如来について、
「法身(ほっしん)は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。」と述べられておられます。
 すなわち、阿弥陀如来の真のお姿は、目にも見えない、考えることもできない、言葉にもできないということです。
 浄土真宗で教えられていることは、この言葉にできないことを言葉を通して伝えようとする営みなのだと思います。

 経典に説かれている阿弥陀如来の本願を、七高僧の方々が汲み取り、解釈され伝えられてきた教えを受け継いで、親鸞聖人が御本典や御和讃などに著して下さったからこそ、後世の私たちが阿弥陀如来の願いを解らせていただく手掛りを頂けているのだと思います。
 もうしばらく、会社勤めをさせていただきながらの住職ではありますが、御同朋の皆様と共に、理会を深めていきたいと思うところであります。

合掌

真覚寺 白澤照範