テーマ 「念仏〜今、私が出遇うべきもの」

「本願力にあわせていただく」


月日が過ぎるのは早いもので、もう今月で一年が終わってしまいますが、半年前のこともあまり思い出せなくて、自分の記憶力の悪さが心配になります。

親鸞聖人のご和讃に「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」とありますが、阿弥陀如来の本願力というのは、阿弥陀如来が命の願いを込めて、私たち一切の衆生を救済しようと活動しておられるはたらきです。本願(第十八願)に誓願されているとおりに、私たちを本願を信じ念仏申すものに育てあげて、私をさとりの世界へと方向転換させるはたらきであります。阿弥陀如来の本願力は南無阿弥陀仏の名号となって私たちにはたらきかけ、私たちの人生観を転換して、新しい人生観、あるいは死生観を確立して下さいます。そして阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきは、生死を超え、自他のへだてを超え、愛憎を超えたはたらきなのです。その本願力にあった人間には、もはや一日たりとも無駄に過ぎることはありません。すべてのことが意味あるものとして感じとれるようになり、一見無駄に思われるようなことを、その底に価値があると実感できるのであります。

テーマに「念仏〜今、私が出遇うべきもの」とありますが、出遇いというのはとても重要なことです。私たちの浄土真宗が今あるのは、親鸞聖人が法然上人と出遇ったおかげであります。もし法然上人が善導大師の「観経疏」のなかの「順彼仏願故」の五文字に出遇っていなかったなら、もし善導大師が道綽禅師に出遇っていなかったなら、もし道綽禅師が玄忠寺の曇鸞大師の偉業を讃えた碑文に出遇っていなかったなら、もし曇鸞大師が洛陽の都で三蔵流支に出遇っていなかったならと考えますと、たくさんの有難い出遇いによって浄土真宗のみ教えが今に伝えられたのだと思います。そして私たちが今こうして人間として生かされているのは、私たちの両親の出遇いがあったおかげであります。両親がこの世に生まれたのは、そのそれぞれの両親たちの出遇いがあったおかげですので、私たちの命が今あるということは、数えきれない程の出遇いによる本当に有難いことであります。

南無阿弥陀仏のお念仏を、親鸞聖人は阿弥陀如来の呼び声であると言っておられて、お念仏は自分が称えているのではなく、阿弥陀如来の本願力が自分に届いて下さって、自分の口から南無阿弥陀仏という声となって出てきて下さっているのだと受け取られました。ですから私たちの口からお念仏が出るということは、私たちにも阿弥陀如来の本願力が確かに届いていることになります。そして限りない光といのち(寿)の仏様であられます阿弥陀如来の本願力は常に私たちに平等に届けられています。「観無量寿経」に「念仏衆生 摂取不捨」とありますように、阿弥陀如来が念仏申すものを、見捨てることはけっしてありませんので、私たちはこの世を安心して生きていけるのであります。

私は阿弥陀如来の本願力である他力によって、いずれは仏に成らせて頂く身であることを忘れずに、感謝の心でお念仏申しながらお浄土への道を歩ませて頂きたいと思います。

 合掌 
   
南光寺 波多野健洋



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