テーマ 「念仏〜今、私が出遇うべきもの」

「亡くなられた方はお墓の中?」


「遺骨をそばに置いておきたい」「お墓に入れてしまったら、家にいなくなる、家族と別々の生活になってしまう」、または「分骨はダメだ」「名字の違う人は同じお墓には入れられない」という想いを抱いている方がけっこう多いです。というのも、私自身このようなご相談を最近よく頂くからです。お子さまを亡くされたり、若くして奥さまやご主人を亡くされた方は特に。
しかし、お骨をお墓に納めるということは亡くなられた方をそこに閉じこめるということではありません。仏教にはそんな考えはありません。私自身いま一度考えてみたいと思います。
亡くなられた方に、お墓の前で遇う、お仏壇の前で遇うと思っている方は多いと思います。
ここで、あなたの身近な方で亡くなられた方を少し思い浮かべてみて下さい。

・・・・・今、心の中にその方が現れませんでしたか?亡くなられた方に遇うのは、お仏壇の前やお墓の前だけではありません。どこにいても、いつであろうとも遇えるのです。その時に生前のその人の言葉や行動を思い出しますよね。その言葉や行動をどう受け止めるか?生前の受け止め方と、あなたが20歳の時の受け止め方、または50歳の時の受け止め方では違うと思います。それが、亡くなられた方が仏さまとなって今現在も語りかけてくださっているということなのです。亡くなられた方は仏さまになって語りかけてくださっているのですから、私がお墓を世話してあげなくてはいけない、お仏壇を世話してあげなくてはいけないという考えは間違いです。全く反対。
私が亡くなられた方、仏さまにお世話をかけていただいているのです。お経にしても、亡くなられた方にお経をあげているわけではありません。お経というのはお釈迦さまのお説教を文章化したものなのですから。仏さまにお説教してどうするの?お経もまた、この私が聞かせてもらっているものなのです。お経をいただいているのです。亡くなられた方が仏法を聞く機会を作ってくださっているのです。残念ながら、私たちが亡くなられた方にしてあげられることはありません。でも心配いりません。
亡くなられた方は「なんまんだぶ」の世界に往き生まれた。以前、聴聞したご法話の中で「人は去っても、なんまんだぶと合わす手の中にその人は還る」という言葉を教えていただいたことがあります。 宗教というのは、この私が安心して生きるためのものです。亡くなられた人のことを心配したり、自分自身のことを心配しなければいけないような宗教は宗教ではありません。人は自分の目に見えるもの、物体としてあるものにとらわれる、とつくづく思います。例えば遺骨や遺影、位牌など。遺骨が自分の身近にあると亡くなられた方が近くにいるようで安心する。安心する分には良いのですが、離れたところに納骨したり、家族の遺骨が分散して納められていたら心配で心配でたまらなくなる。そういう心配をしている方、とても多いように最近よく感じます。仏さまにしても、お仏壇の中に仏さまがいらっしゃると思っている方多いですよね?仏さまは、仏像みたいなお姿でいらっしゃるわけでもないし、お仏壇やお寺の本堂にだけいらっしゃるわけでもありません。いわば宇宙全体の法則みたいなもの。どこかに仏さまがいらっしゃるのではなくて、私自身が仏さまの中にいるという感じでしょう。だから仏さまは絶対私を見捨てないし、こちらから関係を断つこともできない、そういう存在なのです。
遺骨や遺影、位牌が亡くなられた方そのものではありません。人間悩むのはやっぱり物事をきちんと見られないという性質を持っているからなのでしょうね。どんな立派な人でも、自分のものの見方は完璧ではないということを知っておく必要はありますね。亡くなられた方は仏さまの国、浄土に往き生まれた、そこはお仏壇やお墓、家とか人間の思慮の範疇を超えた広〜〜〜い「なんまんだぶ」の世界です。

                                合掌

西福寺 中村瑞雄