テーマ 「念仏〜今、私が出遇うべきもの」

「ありのままの姿 ありのままの自分」


「ありの〜ままの〜姿みせるのよ〜♪ありの〜ままの〜自分になるの〜♪」

 映画『アナと雪の女王』の挿入歌を5歳と2歳の娘たちが熱唱しているのですが、「意味が分かって歌っているのかしら!?」「この無邪気さがまさにありのままの姿だ」と思わず笑ってしまいます。
『アナと雪の女王』を観るために、映画館に4回も足を運び、ポップコーンを食べながら映画を観るというアメリカンスタイルもすっかり堂に入ってしまいました。
 皆様はこの映画をご覧になりましたでしょうか。
生まれつき、雪と氷を操ることのできる魔法の力を持つ姉のエルサは、妹のアナと魔法で遊んでいるときに誤って妹アナに大けがをさせてしまいます。
日増しに強くなっていく魔法の力にエルサ自身が恐れ、お城の門や窓すべてを閉ざし、人と合わない生活を13年も送るようになりました。
エルサは自分の能力、また個性でもある魔法を隠しながら、部屋にとじこもる生活から解放されたい、この気持ちが「ありのままの姿みせるのよ、ありのままの自分になるの」という歌詞に表現されています。
そしてこの歌を歌いながら、ありのままの自分で過ごすため、自分だけの氷の宮殿を魔法の力で建てるのですが、自らの国も氷の国と変えてしまうのです。

 さて仏教的人間観でいう、ありのままの姿、ありのままの自分とは一体どのようなことなのでしょうか。

 親鸞聖人の『愚禿鈔』に
「賢者の信は、内は賢にして、外は愚なり
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」とございます。
 自分のことを振り返って考えてみますと、朝の支度の時間には、なりふり構わずお弁当を作り、子どもたちを幼稚園に送りに行くため、つい遊んでしまう子ども達を急かしながら、自分の身支度を整えます。
幼稚園に着きますと、声高らかに笑顔で「おはようございまーす」とご挨拶。
・・・「我が心も、内は愚にして 外は賢なり」です。
 また『高僧和讃』「曇鸞讃」には
「罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて
 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」
とございます。
 親鸞聖人のご和讃に当てはめて考えてみますと、エルサの建てた氷の宮殿は巨大な煩悩です。しかし煩悩という障りは功徳の元である、と説かれ、氷が多いほど、溶けた時の水が多いように、煩悩が深いほど、阿弥陀如来の恩徳を深く感じられるとございます。
阿弥陀如来のはたらきに気づくことにより、煩悩の氷が解けて水となるのですが、煩悩という本質は変わらず、消えることもありません。
 ありのままの姿、ありのままの自分というのは、智慧に明らかでない愚かな私、また消し去ることのできない煩悩を抱えたままでも、阿弥陀如来のはたらきに気づいていける、煩悩即菩提のことであります。
煩悩具足の私こそ、阿弥陀如来のはたらきに遇い、その徳に気づいていくことができるというのが親鸞聖人の教えであります。

 『アナと雪の女王』の結末は姉妹がお互いを想う愛により、氷が解けて光のある明るい国へと戻ります。
『和訳正信偈』に「ひかりといのちきわみなし」と阿弥陀如来の徳性が書かれておりますが、いつでもどこでも光を照らしてくださるはたらきに気づき、有り難く受け止めていきたいものです。

親鸞聖人と『アナと雪の女王』を我が儘に解釈いたしましたことお許しください。
                        

合掌

満足院  二條 慶子
(淳慶)