持法会御書
平成二十七年 持法会御書

 本日、ここに慈光照護のもと、持法会の勝縁に御参集頂きました事を嬉しく存じます。
また、皆様には平生より法義相続、並びに寺院護持にとお力添えを頂き、お陰様で昨年の御法要も全て滞りなく厳修する事が出来ました事を有り難く存じます。

 さて、今年は戦後七十年の節目の年でありますが、昨今メディアでも戦争を経験した方々の言葉を聞く機会が増えました。語られる言葉に重みと深い悲しみを感じると共に、戦争の悲劇が忘れられつつある現在、その言葉を後に生まれる者に伝えていく事の大切さを実感した次第です。
特に我が国では、戦争や紛争は、歴史の一幕として語られ、あまり身近には感じられません。しかし、所変われば、それは当に喫緊の問題であります。特に近年、紛争や悪逆無道なるテロ事件による犠牲者が後を絶たない事は誠に悲しい限りであり、それらの痛ましい事件を耳にするにつけ、三毒の煩悩極まる人間の心の愚かさ、浅ましさを改めて痛感し、特に宗教においては、教えを正しく頂いていく事の大切さを思わずにはおれません。

 我々の文化、教育、倫理、価値観は、時代と共により良い方向を目指し、様々な変容を遂げますが、その変化は表面的なものに止まるものであり、いくら時代を重ね、時を経ようとも、邪見驕慢なる人間の内面の本質的な愚かさや浅ましさは変わる事がありません。何故なら、それは私達が自らの分別を頼りに、己の計らいの中でしか物事を見る事が出来ない、真実の智慧を持たない無明の存在であるからであります。

 阿彌陀佛は、かねてより、我らが無明の存在で、自力でさとりを開く事の出来ぬ迷いの凡夫である事を御存知であり、生死の苦海に沈み迷い続ける我らを憐れみ、救済すべく誓願を建てられました。果ては永劫の御修行をもって、その誓願を成就されたのであります。
この事を親鸞聖人は『正像末和讃』にて
「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして 廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」というお詩をもってあらわされています。

 この誓願を成就されたという事は、言い換えれば私達が救われていく道が既に完成している、という事でもありましょう。そして聖人は、この救われていく道こそ、お念仏一道に他ならぬ事を私達にお示し下さったのであります。
 特に、教行信証の総序には『円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智』と示されています。
阿彌陀佛は成就された救いのおはたらきである『本願力』を、我ら凡夫に届けさせるべく、お念仏にその本願力を込め、称名念仏の手立てを御用意下さいました。そして、他力の信を得て念仏申す『信心の行者』となるならば、その本願力のはたらき故、例え娑婆の世界で煩悩を持った凡夫であっても、そのままの姿で必ず御本願の船に乗せてお浄土でのさとりへと導く事を阿弥陀仏は誓われたのであります。
 私達は平生より、いくら救いの御教えを聞いても、己の分別が障りとなり、正しく聞く事もままならぬものです。 しかし、親鸞聖人の御生涯は『阿彌陀佛の御本願を聞思する歩みであった』と言われます。『聞思』とは御教えを疑い無く頂き、それを拠り処として我が身に照らしあわせ、自らを問い掛けていくという事であります。私達がこの世を歩む上では、思いがけず様々な事に直面致しますが、親鸞聖人のお姿に学び、この聞思の歩みを以て、往生浄土の道を正しく歩むべく、この人生を力強く歩んで行きたいものです。

 最後に、聖人が『高僧和讃』にて
「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
と詠われたお詩を味わいつつ、私達が如何なる状態にあろうとも、絶え間なく救いの御光を我らに照らし続けて下さる阿彌陀佛の大慈悲に頭を垂れ、日々の仏恩報謝の日暮らしをお続頂きますよう、切に念じ上げます。
合掌     
   
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
        
平成二十七年 誠照寺 法主 釋秀瑞