誠照寺歴代上人

 誠照寺派 歴代上人  生没年  略 歴

初代 親鸞聖人
(開山)


承安3年(1173)生
~弘長2年(1262)

承元の法難にて越後に配流のおり、上野ヶ原の波多野景之の屋敷に逗留されて説法をし、阿弥陀仏坐像を遺されたと伝わる。

第二代 道性上人

承久3年(1221)生
~永仁5年(1297) 

聖人第5子(益方)として生まれ、17歳の時に波多野景之の養子になる。車之道場に住み、河俣の支坊道場(後の常楽寺(江戸前期に廃寺))に第二子道光を住まわす。
弘安2年に如覚と共に現在地へ堂宇を建てる。
後に第三子常光を伴なって、山元の庄(水落)に隠居し、後の
證誠寺(現 真宗山元派本山)の開基となる

第三代 如覚上人
(開基) 


 建長2年(1250)生
~応長元年(1311) 

道性の嫡子。後二条天皇より上野山真照寺の寺号、勅額を請け、住持の綸旨を賜る。
和讚勤行を継承し、勧化章を用いて教化した。

第四代 良覚上人

 永仁4年(1296)生
~正平4年(1349)

如覚の嫡子。
西福寺の開基となる

第五代 秀覚上人


 元応2年(1320)生
~天授6年(1380)

良覚の嫡子。
南光寺の開基となる

第六代 秀雲上人

 正平5年(1350)生
~応永26年(1421)

秀覚の5男。浄土宗西山や法相に学び、帰山して法統を継承

第七代 秀應上人

 応永6年(1399)生
~文明15年(1483)

秀雲の嫡子。末寺門徒が加賀能登、美濃、越中まで及んだといわれ、教団として全盛時代を誇る。
後花園天皇の勅願所となり、誠照寺の寺号を賜る。
現在誠照寺に所蔵の、聖徳太子木像、一尊十二光仏曼荼羅もこの時代のものと言われる。

第八代 秀慶上人

 文安4年(1447)生
~大永5年(1525)

秀応の次男。本願寺蓮如上人吉崎逗留、並びに本願寺勢の一向一揆によって、誠照寺の末寺門徒の多くを失う。 

第九代 秀栄上人

 延徳元年(1489)生
~天文21年(1552)

秀慶の嫡男。本願寺一向一揆がさかんになり、越前守護朝倉孝景より安堵状を得る(末坊常楽寺宛文書(誠照寺所蔵))
天文21年、一揆勢の夜襲により横死される。

第十代 秀意上人

 天文11年(1542)生
~元和2年(1616)

秀栄の嫡子。天正3年(1575)越前守護柴田勝家より安堵状を得る。
賤ヶ岳の合戦後、秀吉勢により放火され伽藍は消失。秀意上人も逃れて7年間能登や美濃の門末へ身を隠す。秀吉より安堵を得て後、仮御堂を建て、安心文を制定され、門末の教化をはかられた。

第十一代 秀盛上人

 天正17年(1589)生
~元和2年(1616)

秀意の末子。在職2ヶ月にして入寂された。

第十二代 秀顕上人

 永禄3年(1560)生
~元和7年(1621)

秀意の長男。秀吉の兵火をのがれて上洛し、浄土宗西山禅林寺の学僧となられた。元和3年に請われて帰山し、誠照寺の法統を継承された。

第十三代 秀恵上人

天正7年(1579)生
~寛永4年(1627)

秀顕の道友にて、秀顕の遺言によって元和8年に入山し、秀恵と改められた。

第十四代 秀山上人

慶長11年(1608)生
~寛文3年(1663)

福井松平藩重臣、高谷越後守の三男。寛永元年に入山された。寺院法度を受けて、連枝寺の常楽寺や誠長寺などとの本末争いにご苦労なされた。

第十五代 秀諴上人
(中興)


寛永9年(1632)生
~元禄4年(
1691)

福井松平藩重臣、太田兵庫頭資武の息男。慶安3年に入寺され、15歳の時に得度。寛文3年に参内され、綸旨上人号を受けられ帰山。
御影堂の再建や、ご本尊である閻浮檀金手引阿弥陀如来像を勧請された。門徒各戸への名号の下附、現在の誠照寺派御文章の制定、寺法を制定されるなど末寺門徒の教化伝道に力を尽くされた。現在の誠照寺教団の基礎をつくられ、中興上人と呼ばれる。

第十六代 秀海上人

寛文4年(1664)生
~元禄6年(1693)

松平藩家臣、毛受太郎左衛門尉の次男。延宝2年に得度、元禄6年に参内。勧修寺大納言経慶の下に東山天皇より綸旨を賜った。
この時、公弁法親王
【天台座主・東叡山寛永寺管主・日光山(東照宮・輪王寺)門跡・東叡山輪王寺門跡】の参内があり、この時のご縁により院室となった。

第十七代 秀如上人

延宝3年(1676)生
~享保14年(1729)

江州膳所藩主本多隠岐康慶の末子。元禄7年得度、14年に西園寺家の猶子となって権僧正に任ぜられた。この上人代に寺域及び寺領が幕府御朱印地に認められた。 

第十八代 秀存上人

元禄10年(1697)生
~享保16年(1731)

秀如の嫡子。享保16年上洛中に急死された。

第十九代 秀憲上人

享保3年(1718)生
~寛保3年(1744)

中山兼親の末男。西園寺家の猶子となって入山された。仮阿弥陀堂を再建。26歳にて入寂された。

第二十代  秀實上人

享保16年(1731)
~文化3年(1806)

萩原兼武の末男。西園寺家の猶子となって延亨元年入山。現存する梵鐘の鋳造、本堂御空殿、四足門・経蔵の建立をされた。
在職中に、浄土宗と真宗間での「浄土真宗」の宗名事件の抗争や、三業惑乱などがあった

第二十一代 秀芳上人


明和2年(1765)生
~天明6年(1786)

秀實の嫡男。十三歳で得度し、後に職を継いでまもなく二十二歳にて入寂された。

第二十二代 秀葽上人

天明8年(1788)生
~文化7年(1810)

三条実起の息男。寛政12年に入山された。

第二十三代 秀厳上人

寛政9年1797)生
~文化9年(1812)

左大臣二条治孝の末子。三条実起の猶子となって入山。翌年急逝される。その後7年間誠照寺は無住となった。

第二十四代 秀観上人

文化9年(1812)生
~天保14年
1843)

秀厳の嫡子。文政3年9歳にて法統継承。天保元年に二条家より御裏方入輿。天保4年に亡くなられたため再び二条家より入輿された。

第二十五代 秀量上人

文政12年(1829)生
~明治24年
1891)

村岡藩主山名義藩の末子。西園寺中納言寛季の猶子となって、弘化2年入山された。同年、鐘楼堂を竣工された。
明治2年に法嗣に職を譲られた。

第二十六代 秀源上人

嘉永5年1852)生
~昭和10年(1935)

西園寺寛季の末男。二条斉敬の猶子となって、万延元年9歳にて入山された。慶応元年得度。18歳にて法統を嗣ぎ、明治10年に御影堂、20年に本堂を再建された。
明治11年に真宗誠照寺派管長ならびに法主に就任。
持法会を設けて布教使をおき、北海道にも開教使をおくられるなど、布教伝道にご尽力なされた。また昭和元年には東京別院(現・満足院本誓寺)を開設された。

第二十七代 秀暁上人

明治12年1879)生
~昭和16年(1941)

秀源の嫡子。明治24年に得度、44年に法主ならびに管長に就任された。車之道場の復興にあたられ、上野別堂として再建された。
満州事変から太平洋戦争勃発など、度重なる戦争慰霊のため、忠霊堂の建立を発願された。

第二十八代 秀淳上人

 明治40年(1907)生      
~昭和61年(1986

昭和16年1月18日真宗誠照寺派管長に就任。宗制を新制定されたり、昭和27年には終戦後の新制度による寺院規則の改正を行われた。

第二十九代 秀政上人

昭和9年 (1934)生     
~平成13年(2001)

昭和61年より誠照寺第二十九世法主に就任
平成5年5月法灯継承慶讃法要


第三十世 秀瑞法主

昭和53(1978)年生

平成4年4月に嗣法殿得度式
平成13年より誠照寺第三十世法主に就任
平成17年5月に伝燈奉告法要勤修




参考文献 昭和43年発行「誠照寺史」より
歴代上人御影画像は御影堂安置連坐像より