誠照寺第30世二條秀瑞法主猊下


古来より人は、自身が感じる様々な不安や苦悩の原因を自分以外の外的な要因に求め、それらを取り除いてもらう、という願いも含め、自分の様々な願望を叶えてもらう為、人智を超えた存在に頼り、祈ってきた歴史があり、何よりそれが宗教の通念的な役割とされてきたところがあります。

しかし仏教の祖、釈尊は「諦観(あきらかに観る)」「如実知見(現実をありのままに見抜く)」という言葉の如く、厳しい現実直視と観察[かんざつ]のもと、様々な欲望や苦を引き起こす原因は、他でもない自分自身の心のはたらきによるものである、という事を明らかにされました。

特に私達の心には、この世での命が尽きるその瞬間まで、次から次へと、むさぼりの心(貪欲[とんよく])や怒りの心(瞋恚[しんに])が湧き起こり、様々な事に執着する心が止む事は無く、それにより様々な苦が生じます。そして、この世に生を受けた以上、そこには誰しもが向き合わなければならない「老病死」の根源的な苦が厳然と存在しております。
自身の心の有り様を真摯に見つめた時、そこには自らが問い続けていかねばならないものがあり、心に生じる様々な欲望や苦しみといった、人間の根源的なところに関わる問題に、如何に向き合い解決していくかという事こそ仏教の本義であると言えるでしょう。




その中で我々浄土真宗の御教えは、端的に申せば、親鸞聖人のお言葉を書き記した『歎異抄』の一節に
「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る」
とある様に、私達が阿弥陀仏の本願力により、信心を賜り念仏申す身となれば、果てはお浄土に生まれ、真のさとりを開き、仏と成らせて頂く、という他力念仏往生を説きます。

さらに申せば、聖人は『正像末和讃』において、
「南無阿弥陀仏の回向の   恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には  還相回向に回入せり」
と詠われている様に、阿弥陀仏のおはたらきには「往相回向[おうそうえこう]」と「還相回向[げんそうえこう]」がある事を説きます。

これは、単にお浄土に生まれる利益を得るだけではなく、同時に「還相の菩薩」となり、私達が住むこの煩悩渦巻く世に還り来て、私達を阿弥陀仏の御法へ導こうとするおはたらきへと転ぜられていく事を言います。

聖人は、これら往還二回向の妙益によって、私達が、阿弥陀仏の御法に出遇わせて頂き、さらに信心をめぐまれ、御念仏申す身となる事で、今を生きるこの平生より、お浄土に必ず生まれさせて頂く身に決定[けつじょう]させて頂ける事(現生正定聚[げんしょうしょうじょうじゅ])を教えて下さっています。

そもそも、この「回向」とは「振り向ける」の意ですが、正信偈には「往還回向由他力」と詠われており、これら往相・還相の二回向は、私達が自ら振り向けるのではなく、全て「他力」によるものであるという「本願力回向」を説く事が聖人の御教えの最たる特徴であると言えるでしょう。

昨今この「他力」という言葉を「他人の力」という意味で捉え、自分で何もせずに人任せにしている様な事を「他力本願」と言う言い方がされておりますが、親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の行巻において「他力といふは如来の本願力なり」と明記されておりますので、決して人の力を指す言葉ではない事に注意する必要があります。

また、この「如来の本願」とは阿弥陀仏が私達を等しく救済したいという願いの事を言います。そしてその願い通りに私達に救いのはたらきを振り向ける事によって、私達を本願の教えに導き(教)、お念仏を称えせしめ(行)、信心を生ぜしめ(信)、往生成仏を遂げさせる(証)、これらのおはたらきを「本願力」と言い、これを即ち「他力」と言うのであります。

親鸞聖人は、この「教・行・信・証の四法を主とする往相回向」と「還相回向」のおはたらきが全て「南無阿弥陀仏」という御名号のなかに摂め取られ、それが阿弥陀様から私達を救わんと願うお喚び声となって私達に届いて下さっているのである、と説いて下さっています。
ですから御念仏は「本願力を具有した他力念仏」であると言え、御念仏申す身になるという事は、即ち阿弥陀仏の救いのおはたらきの中にこの身が置かれている事である、と教えて下さっているのです。

何より私達は、この阿弥陀仏の方から私達の救いが願われて、お力をはたらきかけている、という「願いの主体と方向」に注意する事が肝要であります。「仏様に願いを聞いてもらう」のでは無く「仏様の願いを聴聞していく」のであり、仏様の御教えを聞思していく事こそが私達の大切な歩みであると言えるでしょう。



特に、親鸞聖人の御生涯は「阿弥陀仏の御本願を聞思する歩みであった」と言われています。
「聞思」とは、御教えを疑い無く頂き、それを拠り処として我が身に照らし、自らを問い掛けていくという事で、仏様のお育てに預かっていく歩みであります。

仏様のお育てに預かるという事は、御教えを聞信していく事により、我が身が常に煩悩にまみれ、迷いの世界を流転し続けている姿である事に気づかされ、その事に慚愧の念が生じると同時に、阿弥陀仏がそういう私達をも救い摂り、決して見捨てる事が無いという、その御恩のかたじけなさに、一心に報謝の念をもって御念仏申す身となり、仏様を「真の拠り処」として人生を歩む事でありましょう。

ただ、私達は「救いが願われている」と言われても、実際に目に見えないものや、実感のない物事に対しては、なかなか恩を感ずる事も、感謝する事も、信ずる事もままならないものです。
それは、私達が目先の物事を己の分別[ふんべつ]によってしか見る事が出来ない存在であるからでしょう。

しかし、今私達の住む世界は「無常の世」であります。人間の「知識」や「分別[ふんべつ]」も含め、目に見えているもの、実体のあるものは全てことごとく変化し、いずれ崩れていくものばかりです。
私達はその崩れゆくものばかりを頼りにして人生を歩んでいるという事に、まず気がつかねばなりません。

そこで、親鸞聖人が、
「よろづのこと、みなもって そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
と仰せになりました様に、この無常の世の中でただ一つ、阿弥陀仏のおはたらきが具わったお念仏こそが、決して崩れる事の無い「真の拠り処」となるのであります。

「お念仏こそ真である」という言葉は、知識・分別ばかりを頼っている心では理解し難いものであります。しかし、仏様の御教えは、こういった我が身を頼りにしている私達の姿をあからさまにさせ、人間の本質的な愚かさに気づかせ、やがて自ずから頭の垂れる身へと転ずるはたらきのあるものであります。
そしてこの頭が自然に垂れた時こそ、この『ただ念仏のみぞ まことにて おはします』というお言葉は、我が身の中でさらに深みを増し、光り輝くのではないのでしょうか。



当山は、親鸞聖人が鯖江の地を訪れた事を機縁とし、800年以上の永きに渡り法灯を継承してまいりましたが、この御教えを後世へと伝承すべく、さらなる念仏弘通のため、伝道に邁進していきたく存ずる次第であります。それと同時に、自らがお念仏をよろこぶ門信徒として、仏様のお育てに預かりながら御門徒の皆様と共に歩みを続けていきたいと存じます。
どうぞ皆様も常よりの仏恩報謝の日暮らしを大切にして頂きます様宜しくお願い致します。

真宗誠照寺派 法主 釋秀瑞