上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)宗祖親鸞聖人越後へ配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。
景之はその一族と共に聞法して、溢れる法悦に随喜し、念仏の行者となり、空然
(くうねん)と称したと伝わります。この地を「車の道場(略称 車屋)と称しています。

上野誠照寺親鸞聖人御傳絵(江戸中期作)より
画面右が親鸞聖人が御輿に乗っておられる図。左は波多野景之の屋敷(のちの車の道場)で説法されている図。

江戸時代後期、1800年頃発行の「親鸞聖人二十四輩順拝図会」より。
「空然坊」と「車の道場」


その後景之は聖人の第五子道性(益方入道有房(越後益方に住み、親鸞臨終の際には京都にいたと恵信尼文書にある)を招請してこの車の道場にお迎えし、その息男、如覚上人とともに教線を張ったとされています。如覚上人の代に車の道場の地が狭隘となったので、景之の寄進により現在の地に移り、時の帝、後二條天皇より「真照寺」の勅額を賜ったと伝わります。


永享5年(1433年)町屋敷寄進状 車屋(車の道場)と真照寺の事が書かれています。


奉寄進町屋敷之事
 合<南ハ車屋ヨリ 北ハ真照寺堀之トヲリ>
 右、彼之於町屋敷者、除人足諸公事等、永代真照寺へ令
寄附之処也、於末代更々不可煩者候也、仍寄附之状如件、
  永享五年六月一日      (花押)



如覚上人ご影(善福寺蔵

後二条天皇より下賜されたとの言い伝えの「一尊十二光仏蓮糸曼荼羅」誠照寺では往古より「中将姫御作蓮糸曼荼羅」とされており、浄土宗西山派との関係も深かったと思われます。
十二の化仏は、無量光、無辺光、無碍光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光をそれぞれ表すと考えられます。南北朝時代、正平7年(1352年)の存覚袖日記には、「越前国大町門徒近江国内音羽庄釈道性大徳絵像」には「形像有化仏」とあるといわれ、道性・如覚などの和讃門徒の本尊には化仏が書かれていたと思われます。

(平成25年福井県指定文化財)

伝 如覚上人筆 
絹本着色放光 十字名号 光明45条

誠照寺教団元来の定型本尊と考えられます。
本願寺第8世蓮如上人が当初1460年頃に下付していた十字名号は光明が48条でしたが、誠照寺とその末寺に今も伝わるものは光明が45条前後であり、違いが見られます。
上下に讃なども付きません。




如覚上人御木像


 道性・如覚両上人は正信偈・和讃と、勧化章(かんけしょう)の創始と相まち、念仏の声は燎原の火の如く越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと広まり、草創にして隆盛を極め、世に「和讃門徒」と称し、永享9年(1437年)第七代秀応上人の御代に後花園天皇(1428年~1464年)より改めて「誠照寺」の勅願を賜りました。


永享11年(1439年)文書 既に真照寺から誠照寺に変わっています。
鯖江庄内誠照寺敷地并寺領事、田那部六郎左衛門入道号彼名買得、寄進永善寺云々、既長田蔵人云放券、云右京亮寄進、旁以理運歟、殊守護方加下知之上者、領掌不可有相違之由、依仰執達如件、
  永享十一年七月卅日    修理大夫(花押)
 誠照寺住持

如覚上人が書かれたと伝わる「勧化章(かんけしょう)」
左は江戸時代の写本と言われる。
万治元年(1658年)第14世秀山上人の奥書がある。


 室町時代は長禄合戦など戦乱の世が続き、1500年代後半には石山本願寺率いる越前一向一揆勢との争いや秀吉の兵火による伽藍の焼失、江戸時代初期の寺院法度を受けての末坊常楽寺などとの本末争いなどで宗勢は一時衰微に向いましたが、中興上人といわれる第十五代秀諴(しゅうかん)上人の厚い信徳と閻浮檀金手引阿弥陀如来の本尊としての勧請により、讚門徒の誠照寺教団として一躍再興されました。


天正11年(1583年)筑前守羽柴(豊臣)秀吉からの安堵状
当寺并諸末寺以下、如有来不可有異儀、還住候而執行専要候也、仍状如件、
  天正十一 四月廿六日  筑前守 秀吉(花押)
    越前国鯖江 誠照寺

 後年、摂家二条卿を猶子家とする格式を得て、現法主、二條秀瑞猊下(にじょう しゅうずい げいか)まで三十代にわたり真宗本願他力念仏の根本道場として、伝灯相承され、今日に至っています。(※誠照寺歴代上人系図)
 現在では誠照寺を本山とし、福井県内を中心に、岐阜県、東京都、新潟県、北海道などに末寺を有する、真宗誠照寺派
(しんしゅうじょうしょうじは)を形成しています。


 又、鯖江市(さばえし)は福井県のほぼ中央に在り、往古から日野川と北陸道の交通の要所として、また中世から江戸時代にかけては誠照寺の寺領、門前町として栄え、今日の発展をみるに至りました。

元禄10年(1697年)の誠照寺周辺古地図。江戸時代前期には誠照寺周辺にはすでに門前町が形成されていたことが分かります。
この当時、寺の周りには空堀が残り、戦国時代の城郭寺院としての名残が感じられます。
江戸時代後期、1800年頃発行の「親鸞聖人二十四輩順拝図会」より。
江戸中期、第二十代秀實上人頃からの本山の鳥瞰図です。
焼失前の寄棟造の御影堂(十六間四面)、阿弥陀堂や門前の様子がわかります。
この後、文久元年(1862年)に焼失し、明治10年(1877年)に現在の御影堂に、明治20年(1887年)には阿弥陀堂が再建されました。
左図の経堂と山門は現存のものです。

 誠照寺歴代上人について
(開山親鸞聖人~第三十世秀瑞法主)
 御開山である親鸞聖人から、現在のご法主までの法統の継承です。